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闘病記

甲田先生には40冊以上の著書があるが、その中には、患者の体験記が必ずといっていいほど紹介されている。
僕は、甲田先生の本は全冊持っているし、患者会の会報誌も全て持っている。
その他、甲田医院に寄せられた数多くの体験記にも目を通してきた。
おそらく、僕ほど甲田医院の患者の体験記を読んでいる者はいないと思う。

その数々の貴重な体験記の中でも、以下に紹介する新井美妃さんの体験記は、群を抜いている。
新井美妃さんについては、以前、このブログで紹介した。
http://savechild1219.blog.fc2.com/blog-entry-301.html

今日、久しぶりに新井美妃さんの体験記を読んで、その内容に改めて共感し感動した。
なぜ、いま新井さんの体験記を読んだかというと、今日は彼女にとって試練の日であり、自分は何もできなけど、せめて今日一日は彼女の幸せを祈る日にしたいと思ったからだ。

あまり詳しくは説明できないけど、もしあなたが、以下の新井さんの体験記を読んで感動したなら、あなたも新井美妃さんの幸せを、少しでも祈ってほしい。


闘病記
群馬県藤岡市在住 新井美妃 学生 34歳(2003年)
 
「運命」‐それを「命を運ぶ」と読むか、「命を運ばれる」と読むか、そこがもう人生の分かれ道なのだと思う。
 
1.発病以来の経過
 私か難病だと診断されたのは、念願だった大学院に合格し、輝かしい光の中にその第一歩を踏み出そうとした矢先のことであった。前年1991年の秋から右手人差し指の関節に痛みを感じるようになり、近くの接骨院で、湿布や赤外線治療を行っていた。当時は教育実習や博物館実習、卒論の執筆などで手を酷使していたこともあり、腱鞘炎くらいにしか考えていなかったのである。それでも、あまりに長く痛みが引かないので、市内の個人病院で検査を受けた。しかし、血液、骨、関節などに異常は認められず、やはり使いすぎか過労からくるものであろうという診断だった。翌年1992年3月には、右足首にも腫れと痛みがでてきて、これは単なる腱鞘炎ではないのではないかという強い疑念がわき起こってきた。そして、次々に広がっていく痛みと不安に耐えながらの、1年間にわたる病院巡りが始まったのである。
 症状としては、体中の関節に腫れと痛みがあるものの、血液データからは決め手となる値が出ないため、病名さえつかない。このときすでに、私は足を引きずり、一度座りこんだら立つためには相当気合いを入れなければならなかった。こんなにもひどい症状に苦しめられているというのに、医者は数字の羅列を見て、「病気とはいえず、膠原病の疑い」でしかないというのだ。東京の大学病院へも1年通ったが、血液検査と鎮痛薬の投与に終始した。
 膠原病-ある特徴的な炎症変化が血管・結合組織にみられるような疾患を包括していう。全身性エリテマトーデスや慢性関節リウマチ、多発性硬化症などが含まれる。あれから9年経過した今でも、現代医学における膠原病の認識は、特定疾患に認定される難病で、原因さえわからず、確たる治療法がないため、対症療法を行うだけだ。

2.絶 望
 当時の私は現代医学に限界を感じ、打ちひしがれていた。「なぜこんなことに…。なんとかして治る道はないのか。」蝕まれていく身体を抱えながら、必死の思いで鍼灸、整体、健康食品、果ては神社仏閣まで、とにかく良いといわれるものはなんでも試していった。しかし私にとって、いずれもこれといった効果はなく、身体は日を追うごとに動かなくなっていったのである。期待をかけては裏切られ落ちこむ生活。「まただめだった」とひとつ突き放されるたびに、不安と絶望の風が私をさらなる闇の方へと押しやるのだった。
 その間、私の身体は薬を手放せなくなっていた。この体験は、今思い起こしても恐ろしい。薬を飲めば悪夢のような痛みから開放される。「飲む」という簡単な行為で病気を忘れられるのだから、こんな楽なことはない。けれど、それはほんの一時のことであって、薬が切れたと同時に痛みは襲ってくる。そうなると、一歩を踏み出すのさえ、苦痛に顔を歪めながら、全身の力をふり絞らなければならなかった。悪魔のような誘惑でひととき甘い夢を見させ、電池のように私を動かす薬。それでいて根本的治療には結びつかないのだ。続けていると、効きぐあいも徐々に短くなってゆくのがわかった。そのような薬物を長く続けていくことは、身体にとっても良いはずがない。副作用についても心配であったし、なるべく自制して飲まないようにはするものの、心はどんどん薬へと依存していった。常に薬を持っていなければ、不安な状態にまでなってしまったのだ。飲まなくても、とにかく持っているだけで安心する。「ああ、これが中毒ということなのか」と思った。病院では、私の心などお構いなく、薬の処方量や種類が増えていくばかりだった。ときおり「新薬が出たから試してみましょう」などと、詳しい説明もなく投薬されてはみるものの、検査データは同じ値にとどまるどころか、悪くなる一方なのだ。これでは治る見こみなどとうてい望めない。
 「痛みと闘い、いろいろな療法を試み、こんなにも努力しているというのに…」病院の帰り道、人ごみの中にもかかわらず不覚にも涙がこぼれた。「このまま症状が進行し、やがては寝たきりになってしまうのだろうか?」家族にかかる負担を思うと、底のないブラックホールに吸いこまれるようだった。ふと気づくと、駅のホームの白線の外側を歩いていたりした。その頃の私の心は、とても死の近くにいたのかもしれない。

3.甲田療法入門
 私がある一人の医師を知ったのはそんな時だった。彼は「マイナス栄養」なる不可思議な説を唱え、現代医学に真っ向から対抗していた。しかし、さまざまな難病を治しているのは事実であった。私は、その先生の書いた本を何冊も買いこんできては読みふけった。今まで何度も裏切られてきただけに、そう簡単に信じるわけにはいかなかったのである。かすかな希望を抱きつつも治らないから難病なんだ。だからみんな苦しんでいるんじゃないかと、挑むような気持ちで頁をめくっていった。そのすべてを読み終えたとき、私は自分か間違っていたことに気づいたのである。一筋の光が私に投げかけられた瞬間だった。これまでの私は、治してもらうことばかりを考えていた。人間に本来与えられた力を、忘れていたのである。自然治癒力を高めて自ら病気を克服することが、その先生の主張であった。私は意を決して新しい門をくぐった。1993年2月12日のことであった。
 はるばる大阪まで足を引きずりながらやってきたわりには、診察は3分足らずで終わった。私の手を見て「宿便がありますな」と一言。あとはお腹をちょっと触り、さらさらっと食事と運動のメニューを書いてくださっただけである。これまでの病院では、初診時には長く待たされ、さまざまな検査で何時間も費やすのが常であったから、そのあまりの違いに何だか拍子抜けしてしまった。けれどこの、難病を難病とも思わないような診察に、かえって望みが託せるような気さえしたのである。
 私か最初にいただいた処方は、
  朝 青汁1杯。
  昼 玄米ごはん、とうふ半丁、黒ゴマ10グラム。
  夕 青汁1杯+昼と同じもの。
  金魚運動3回、毛管運動5回、裸体操3回、合掌合蹠運動1回、温冷浴1回。

4.必死の闘病生活
 同じ日に診察を受けた患者さん達の中では、いちばん厳しいメニューであった。病院、薬、医者を頼って治してもらうことを考えていた生活から、自らの力で治していく生活に入り、私は病気と真正面から対峙しなければならなくなった。
 1ヵ月もすると、頭部に湿疹が現れ、頭髪が細くなりさかんに抜けた。痛みは相変わらずで、夜になるとお腹が張り、眠れずによく一人で金魚運動をしていた。4ヵ月過ぎる頃には、体重は10キロ減少し、入浴の際には必ず立ちくらみで目の前が真っ暗になった。それまで37.5度だった体温は、夏になると毎晩39度近くまで上がり、荒い息でまんじりともせず朝を迎える日々が、冬になるまで続いたのである。
 とにかくこの頃の私は、夕方から夜にかけては、現れる症状と闘って体力を使い果たし、翌日は疲れきって寝ていることが多かった。肉体の不調もさることながら、慣れない闘病生活に親子ともども四苦八苦して、精神的にもつらい時期であった。この降ってわいたような難病に対し、家族も私も「どうして?」という思いと、「治るまでどのくらいかかるのか」という不安があり、気持ちのやり場のないいら立ちから、感情を衝突させては互いに傷つけ合っていたのである。
 たいていは明るく笑って過ごす。家族の前で、友達の前で、電話に向かって、元気を演じた。それでもときには、どうしようもなく涙がこみ上げてきて、押さえきれないこともあった。けれど、そんな様子を見せようものなら、「もっと強くなってもらわなければ困る」と叱られた。1年365日、一瞬たりとも落ちこんだり、弱音を吐くことのない人など、そうたくさんいるものだろうか。母には不満や怒りを主張する自由が許されて、私には涙を流す自由さえないのだろうか? 身体を思うように動かす自由もないのに、心を思うように動かす自由もないのだろうか? と思った。娘を不欄に思う親心ゆえの感情の波立ちを、彼女自身処理できずに私に投げつけていたのだと、今なら理解できる。けれど、その頃は自分の感情をコントロールするだけで精いっぱいだった。相手のすべてを受け入れる余裕などなかったのである。
 季節ばかりが駆け足で通り過ぎていった。私のまわりだけが、時を刻むのを忘れたかのように止まっていた。いつになったら大学院に復帰できるのかという焦りもあり、先の見えないトンネルを、手探りで進んでいるようであった。私は日々、感情を平静に保つよう努力した。狂おしいような思いがわき起こってくると、呪文のように祈りを唱えてやり過ごした。
 次々と現れてくる厳しい症状。しかも病気自体が良くなっているといった実感はなく、状態はますます悪化していく。療法自体、周囲からは理解されず、「一体そんなことをやっていて大丈夫なのか」とさかんに言われた。しかし私には、不安はあっても迷いはなかったのである。ひとつには、この療法が食事と運動を主体とし、身体に対して特別に害を及ぼすと思われることがなかったこと。薬の副作用を心配せずにすむのは、本当にありかたいことであった。また、治るために何かを購入させられるというような商業的なこともまったくなかった。これまで藁をもすがる思いで、どれだけわけのわからぬものにお金を注ぎこんできたか知れない。収入のない私にとっては、お金のかからぬこの療法は、長く続けていけるものであり、信じられるものであった。そして何よりも、治ると言ってくれる先生は甲田先生ただ一人だったのだから、この道を進むより他になかったのである。
 いったんどん底までのカーブを描くことは本を読んで知っていたし、「煩悩即菩提、症状即療法」と頭では理解していた。しかしあまりにひどい反応に、西本先生に電話をかけることもあった。母などは、外部からいろいろ吹きこまれるものだから、私以上におろおろして、よく西本先生に叱られていた。西本先生は、電話の向こうから、そして時には家にまで足を運んで、檄を飛ばして励ましてくださった。「甲田先生が治るって言ったんだから大丈夫さね。あなたが治るまで、私はしっかり伴走するよ!」この温かく厳しい伴走者がいたからこそ、8年もの長い間、諦めることなく走ってこられたのだと思う。甲田医院から遠く離れた地で、孤独に療法に取り組む私にとって、身近でサポートしてくださる西本先生の存在は、命綱にも似た心強い存在だった。
 1年目は、月1日程度の断食を合計10回行った。初めて行ったときには恐る恐るであったが、くり返し回を重ねるごとに、精神的にも肉体的にも楽にできるようになっていった。劇的な効果を期待していたが、思ったほど痛みは改善せず、病気の根の深さを痛感させられた。それでも4回目の断食の後、パンパンに腫れていた指に、初めて皺が現れたときにはとても感動した。結局、数日のうちに元に戻ってしまったのであるが、私の身体が変わりつつあることだけはよくわかった。そして変わりつつあったのは、身体だけではなかったのである。

5.病状好転の兆し、感謝の毎日
 病気というのは常に自己と向かい合わせてくれる。24時間×毎日・毎日・毎日・毎日…。病は私のなかに巣くい、肉体的にも精神的にも根を張っていた。痛みが絶えず私にその事実を突きつけ、そこから逃れようがなかった。だから気がつくと、いつも自分を見つめていた。
 闘病生活を始めた当初は、どうしても元気だった頃の自分というのが頭にあって、そのギャップに苦しんだ。今までなるべく人に頼ることなく、悩みや問題も自分で解決してきただけに、何かと人に手伝ってもらわなければならない生活は、とても情けなく思えた。相手に対して常に申しわけないという気持ちを抱え、ちょっとしたことを頼むのにも心苦しかった。いや、ちょっとしたことだからこそ頼みにくかったのである。忙しそうに働く看護婦さんに、声をかけにくい患者の気持ちだ。けれど、実際手を借りないことには何もできないのだから、それは徐々に慣れというか、あきらめというか、今の状況を受け入れるようになっていった。
 それでも、ずいぶん自分の存在理由については悩んだ。「果たして自分は生きている価値があるのだろうか」そんなことをよく考えた。「生きていてもいいよ」と言ってくれる何かを、必死で探していたように思う。
 私の眼は同じように難病で苦しむ人々や、高齢者や障害者と呼ばれる人達へと、自然に向けられていった。いわゆる社会から弱者という扱いを受けている人達の中にも、懸命に今を生きる人がたくさんいた。過酷な状況にも負けず、精いっぱい生きている人に、人は感動する。その人生は輝きを発しているからだ。誰かに感動を与えるというのは、すごいことではないだろうか。彼らの人生を、無駄なものだと否定できる人がどこにいよう。時に光さえ見えるような魂を、誰が奪ってよいものか。それに、生命は肉体だけで成り立っているものではないし、おそらく目に見えないところで、ずっと多くのものと関わりをもっている。自分の生命ではあっても、自分だけのものではないのだ。生きているだけで、人はきっと宇宙から無条件に受け入れられている。そして、どういう心で生きているかということこそ大切なのだと思った。自分の生を否定することは、彼らの生をも否定することである。そのようなことは、私にはとうていできなかった。
 身体が不自由になる前は、「人に迷惑をかけずに生きていきたい。」そう思っていた。今考えてみると、ずいぶん傲慢な考え方だったような気がする。人に迷惑をかけずには生きられない身体になってみて、誰にでも多かれ少なかれ、何かに迷惑をかけて生きているのだと気がついた。いや、迷惑というよりはむしろ、恵みによって生かされているといえよう。たとえば人でなくても、自然や地球の恩恵なしに生きていくことができるだろうか。災害、病気、事故、戦争など、さまざまな理由で、生きたくても生きられない人々もたくさんいる。私達は自分で生きている以上に、大いなるものに生かされているのだと思うようになった。そしてその生命はいずれも、かけがえのない尊いものなのだ。だからこそ、与えられた生命は精いっぱい生きなければならないし、自分にできる限りのことは、返していきたい。いつしか私は、「迷惑をかけずに」と思うより、いつも感謝して生きていこうと考えるようになっていた。
 自分で納得して始めた療法であるが、薬を飲むだけの現代医学と違って、実に大変な毎日である。厳しい食事制限に加えて、さまざまな運動、温冷浴などで1日の大半は費やされてしまう。しかも今までの悪い身体の体質を改造しなければ、自然治癒力は高まらないのであるから、病気が完治するには長い年月がかかる。始めた当初は2年もすればだいぶ良くなるだろうと考えていたが、私の場合それは甘かった。痛みと食欲を天秤にかけて、痛いくらいなら食べないほうがよい、ときっちりメニューを守ったが、2年など瞬く間に過ぎ去った。
 2年目くらいから、1回で行う断食日数は3日、5日と増えていき、やがて1週間から2週間できるようになった。体力をつけるために、食事のメニューには白身魚や煮野菜が加わり、食生活にもとても満足感があった。断食をすると食べもののありがたさが身にしみてわかる。この療法に入る前までは、時間がきたら食卓に並べられたものを、当たり前のようにただ口に入れているだけだった。食べるということに対して特に感慨もなく、なんと奢った食べ方をしてきたのだろうかと恥しくなる。しかし、飢えの体験をしてからというもの、少ない食事の一口一口が、本当においしくありかたく、命をいただいているのだという厳粛な気持ちが、自然とわき起こってきた。
 この目の覚めるような意識の変革には、私自身が驚かされた。おそらくこの飽食の日本において、たいていの人達は意識していない。生命は命によって生かされているのだということを。私達が口にするものことごとく命である。魚の切り身や肉の魂は、最初から食材だったわけではなく、みな私達と同じように呼吸し生きていた命である。彼らの犠牲があってこそ、私達は生きてゆけるのだ。なのに、日々大量に廃棄される残飯に埋もれながら、なお貪欲に美食を追い求めて、人々は動き回る。果たしてこんなことがいつまで許されるだろうか。
 少食には、決して病気治しのためだけではないすばらしい効用がある。今後予想されている世界人口増加に伴う食糧危機や、環境破壊に対しても、大いに威力を発揮する重要な鍵だ。この鍵で開く扉の向こうには、すばらしい世界が待っている気がしてならない。命を大切にする愛と慈悲の実践-少食-は、現代の日本においてこそ必要なのだと切に思う。

6.服薬放棄と激痛の襲来
 1996年、それまで少しずつ減らしてきた薬を一切断つようご指示をいただいた。薬を飲んでいるかぎり、腸の動きはよくならない。たとえいったん動けなくなろうとも、断つべきだとの判断だった。そして、その通り私は、歩くことはおろか立つことさえも、できなくなってしまったのである。急に私の生活範囲は狭まった。それまでは、杖を支えに外出もできたし、ある程度の日常生活は自分でできていた。ところが薬を断ったとたんに、ひと部屋に閉じこめられたような生活である。外へ出たくても車の揺れに耐えられない。トイレや食事、入浴にも介助が必要となった。とにかく座っているだけでも、絶え間なく全身が痺れたように痛み、私自身はその痛みに耐えるだけで精いっぱいであった。身体に接触する部分は特に痛みが強いものだから、ベッドに横になるにも、5つも6つもクッションを当てなければならない。当然眠りも浅く、24時間中が闘いだった。自力では向きも変えられないので、夜中に一度は母に起きてもらわなければならず、同じ姿勢でいるために硬くなった身体を、ほぐすまで1時間もさすってもらわなければならなかった。甲田先生のご本に、痛い部位に手を当てていたら服に穴があいたというくだりがあり、読んだときには本当だろうかと思っていたが、身をもってそれを体験させていただいた。私のパジャマは擦り切れ、何着も穴があいてしまったのである。
 動けなくなってはじめて、当たり前の幸せが身にしみた。歩くことひとつとってみても、どうやって歩けていたのか不思議なくらいなのだ。人間の身体とは、実に精巧にできているのだなあと今さらながら感心した。失ったものは大きかったが、同時に、私はたくさんのものを与えられた気がする。見える幸せ、聞こえる幸せ、話せる幸せ…、今まで意識することのなかったさまざまな幸せが見えてきたのだ。不自由な身体になってからのほうが、人のやさしさに触れる機会も多くなった。閉ざされた空間にいるからこそ想いが膨らむのか、蕾がひとつひらいても感動する。自然の強さと美しさは、以前にもまして胸に迫るようになった。湯呑から立ち上る湯気にさえ安らぎを覚え、小さな虫一匹にも愛しさを感じてしまうのだ。世界が輝きだしたといったらよいのだろうか。決してドラマティックとはいえない、昨日と変わらぬかのような一日の中にも、喜びはあった。「今日という日を無事に過ごせたこと」、それだけで、私にとっては十分幸せなことだった。天が私からすべてを奪わず、きちんと生きる喜びを残しておいてくれたことに、心から感謝したい。
 自分の力でどうにも変えられない事実に対しては、自分の意識を変えていくよりほかない。しかも前向きに、明るく心がけなければ、長い闘病生活などやっていられるものか。泣いても一日、笑っても一日。同じ一日なら、笑って過ごそう。私は幸せ探しが上手くなった。小さな良いことを数えあげては大きく喜ぶ生活が、自然と身についていった。指一本動かせぬ人は、せめて指が動かせたらと願い、歩けぬ人はせめて歩けたらと願う。健康なら健康で、お金が欲しかったり、名誉が欲しかったり、人の欲望などそんなものだ。「今」ある幸せに目を向けず、他人を羨んでばかりいたら、ずいぶんつまらない一生ではないだろうか。今を幸せと思えなければ、人はずっと不幸である。なぜなら、過去も未来も決して捕まえることなどできはしない。人は「今」という時の中でしか生きられないのだから。
 確かに現在不自由な暮らしを余儀なくされている。それでも私は幸せだと思って生きることにしている。これで完治したら、私は相当幸せな人間になるだろう。何しろ、歩くことだけでも大きな喜びとなるのだから。誰の中にも幸せの種はきっとある。それは障害の有無や境遇に左右されるものではなく、平等に与えられたものだと信じたい。ただし、その種を芽吹かせ、どんな花を咲かせるかは、本人次第だと思うのである。

7.闘病生活もプロの域に
 闘病生活も3年、5年と続けていると、プロの域に近づいてくる。おそらくこの療法で戸惑うのは、一直線に上向きで良くならないためだ。良い、悪いの波をくり返しながら、その振れ幅が少なくなっていくと考えたほうがよいだろう。一見症状が悪化したかのように見える出来事は、その後何度もくり返された。入浴時、お湯が揺れても激痛が走り、我慢できずに泣いたこともあったし、顔を拭くにも折れているのではないかと思うくらい、鼻が痛いこともあった。断食中には、急に気持ちが悪くなり、全身から脂汗が吹き出て、おなかは痛く、呼吸は速いし、顔は土気色で、どうにかなってしまうのではないかという時もあった。湿疹など、時を変え場所を変え、今だに大発生する。しかし、ある程度の時が経ては、不思議と症状は治まるのだから、すごいことだと思う。どんなに激しい嵐でも、時が経てば去って行く―それがわかっていると、耐えられるものである。こうして症状の波乗りができるようになると、平穏な心で日々を淡々と過ごせるようになった。最近では「おっ、頭部流星群発生。今度は手の甲流星群。脚部流星群はしばらくごぶさただな」などと、湿疹を流星になぞらえて楽しむ余裕さえあるのだから、当初の苦痛が嘘のようである。多くを越えてきた体験が、過ぎ行く嵐を耐えぬく力を培ってくれたのだ。

 時間薬は親子の間にも効いていた。ベッドから車椅子への移動、入浴時の介助など、一つひとつが声をかけ、呼吸を合わせなければ上手くいかない。そのうちに自然と心も寄り添うようになっていった。家族にも、私にも、年月が学びと成長を与えてくれたのである。互いを思いやる気持ちが、より濃密な関係を作り、ぶつかり合うこともなくなった。今では、ひとところにかたまって咲く福寿草のように、ひとつ屋根の下で肩を寄せ合い支え合う暮らしだ。病がくれたもうひとつの贈りものであろう。特に、毎日欠かさず介護してくれる母には、言葉に尽くせぬ感謝の気持ちでいっぱいである。母親の愛とはこんなにも大きく、深いものかと、感動せずにはいられない。いつの日か、孝行できる日がくることを私は願ってやまない。
 日々私の身体に触れている母には、少しずつ快方へ向かっていることが実感できるためか、数少ない療法の理解者でもある。最近では同じ食事内容で、断食にも5日間付き合ってくれるようになった。やはり身近に仲間がいるのはうれしいことである。しかも、比較的健康体である母には、めきめきと効果が現れた。体重が10キロ近く減少してずいぶんスリムになり、長年の貧血も見事に解消された。肌も透明感が出て美しくなり、若返ったようである。これは私にとっても、大きな励みとなった。

8.待望の生菜少食と断食で著効が現れる
 2000年1月24日に生菜少食Bのご指示をいただいた。いよいよ生菜食のできる身体になってきたかという喜びと、玄米粉などおいしく食べられるのだろうかという気持ちで翌日から始めた。だが、この食事は思いのほか快適だった。何より挽きたての玄米粉は香ばしくて甘味がありおいしいし、体力を落とすことなく断食中の身体の軽さを保てる。ただ火を使わない食事なので、今のところ身体が寒くて仕方ないが、やがてこれにも慣れるであろう。併せて、隔月で1週間の断食を行っている。定期的に組みこんであるためか、ストレスを感じることなく、当たり前のようにできるようになった。断食をくり返すたびに痛みと腫れも徐々に引けており、現在、力を加えないかぎり痛みはほとんどない。背中からリュックをひとつ下ろしたかのように、身体全体がしなやかに楽になった。最近は寝返りもいくらか打てるようになり、ガスでお腹が張ることもなくなった。肌の色も格段と良くなり、少しずつ生気が戻ってきているような気がする。腕や足など、上げられる範囲も広がってきたので、薬を断って以来できなかった毛管運動も、この秋から再開した。少しずつ、本当に少しずつではあるが、できることは確実に増えてきている。
 甲田先生はいつも「1年前と比べて痛みはどうかな?」と聞いてくださる。昨日と比べて変化はなくても、年単位で比べれば確実に良くなっているのは事実である。血液検査のデータも、数年前と比べると驚くほど改善された。この病気の恐ろしさは進行するということにある。薬で押さえられているうちはまだいいが、その薬も量を増やさなければ効かなくなってくるとしたらどうであろう。食事と運動だけで、この難病が治っていくことを証明できれば、多くの人達の希望につながるにちがいない。
 膨大な数にのぽる人達が、現代病ともいえる病気を抱えるこの時代、マスコミでは日々さまざまな健康法が取り上げられている。「青汁」「朝食抜き」という言葉も、だんだん耳にするようになり、身体の不調を訴える知人が、この療法について尋ねてくることもあるようになった。けれど内容を話すと、ほとんどの人が始める前から自分にはとうてい無理だと決めつけてしまう。興味があるなら、とりあえず一歩踏み出してみたらどうかと思うのだが。やってみてこそ良さを体感できる療法である。特に病気でない人には、効果も早く現れるし、未病に防ぐ健康法としてお勧めしたい。重病の人には、時間がかかって大変ではあるが、治れる希望の光があるだけ救われる療法である。
 名もなき荒野に道はない。けれど、そこを一人行き、二人行きするうちに跡がつく。次々と行く人々が大地を踏み固め、やがてそれはひとつの道になる。私もその道を担う一人になりたい。この療法でいただいた光を、絶やすことなく、より多くの人達と分かち合えるよう、これからも精進したいと思う。不治を宣告された日から9年、夜明けはもうすぐそこまで来ている。

9.お互いを励ましあう仲間ができて
 1997年夏には、インターネット上に「甲田医院入院患者会OB主催のホームページ」が立ち上がり、メーリングリストを通じて、互いに悩みを打ち明けたり励ましあったりできるようになった。たとえ身近に同じ病気や療法に取りくむ人がいなくても、全国にはこれほどたくさんの仲間達がいるという事実。これには大いに勇気づけられ、孤独感からも開放された。多くの仲間達が、病気という贈りものを天からいただき、自己と向き合いながら魂を磨いていく様子が、日々送られてくるメールから伝わってくる。いつだったか、作家の葉山修平先生が、「ひたむきに一筋の道を歩いているものは、未知の人でもつまりは、友人です」というお言葉を贈ってくださったことがあったが、このメーリングリストにおいても、未知の友人との温かな交流が、長い闘病生活を送るうえでの心の支えとなっている。甲田先生の朝礼講話なども、ホームページで概要を知ることができるので、もはや甲田医院はそれぞれの心の中にあるといってもよいのではないだろうか。ボランティアで運営してくださっているスタッフの皆様にも、心から感謝したい。
 8月1日の甲田先生のお誕生日には、メーリングリストの仲間で、日々のメールを一冊の本にして、代表の方が先生にお届けした。大変喜んでくださり、私のところにもお電話をいただいた。甲田先生は、長年にわたり、貴重な休日のお時間を割いて朝礼講話をなさっている。そこには全国から先生を慕って、仲間達が集まってくるのだ。医術イコール算術という医師も多い昨今、甲田先生のように患者さん達から慕われている医師は、全国でも数少ないであろう。親しみやすく温かく優しく、患者が治ることをいちばんの喜びとしてくださる先生。そのすばらしい魅力が、厳しい療法ながらも多くの仲間を増やしているのだと思う。病気をきっかけとして、人生の師とも仰ぐべき先生と出会えたことは、大きな喜びであった。
 ひとつの星が爆発して、形がなくなってしまっても、絶対に残るものが重力なのだそうだ。すると重力に引かれてまたそこに物質が集まって、熱くぶつかり、新しいパワーとなって新しい星が生まれるのだという。人間も同じではないだろうか。
 これまでの人生が、病気や何かで吹き飛んでしまったかのように感じている人もいるだろう。けれど、吹き飛んでしまった後にさえ、決して「無」ではない何かが残っているはずだ。そこからまた新しい人生を始めればよい。重力に引かれて集まってくるものがきっとある。そして引かれたもの同士は同じ想いを知っている…。私はそんな出会いを大切にしながら、新しい人生を歩んでいきたい。

10.いのちの道
 「病気を治すことが目的なのではなく、治ったら何をするかが大切なんだよ」と甲田先生はいつもおっしゃる。だから仲間達は瞳をキラキラさせて夢を語る。「あと5年かけて身体を治しながら医学部を受けて、同じように難病で苦しむ人の手助けをするんだ。」「障害をもつ子供達に生きる勇気を与えたい。」「弁護士になって弱い立場の人達を守りたい。」これが難病に生きる人達かと思うほど、その生き方は前向きで明るい。それは長い闘病生活の中で、彼らが「命を運ばれる」生き方ではなく、「命を運ぶ」生き方を身につけたからではないだろうか。そして誰もが、少しずつではあるが、着実に自分の中に蘇りつつある力を感じているからであろう。
 自ら命を運んでゆくこと―それが私の選んだ道である。まぶしいほどの青空の下、道は真っすぐにのびている。

いのちの道
健康で忙しそうに働く人を見て
働けていいなあ
とぼやくリストラの中年とすれ違って
歩けていいなあ
と羨む車椅子の私の横で
手がつかえていいなあ
と呟くあなたの隣りで
見えていいなあ
と手探る彼女の手をとって
聴こえていいなあ
と手話する彼の後ろで
住むところがあっていいなあ
とお腹を空かせた野良猫を横目に
つながれなくていいなあ
と遠吠えをする犬の足元で
歌えていいなあ
と考える一輪の花を眺めて
悩みなんてなさそうでいいなあ
と働く人がため息を吐く
真っ直ぐに伸び行く一本の道は
そらから見れば
同じ命の輝きと尊さが
明滅する光にすぎない
刻一刻と変化する
美しい一筋を眺めながら
かみさまは ほっと
息を漏らした


□甲田光雄先生のコメント
 よく頑張った!
 全身性エリテマトーデスや慢性関節リウマチなどの膠原病は、現代医学でも難病の一つとして指定されており、発病すればそう簡単には治らないものと覚悟しなければなりません。なかには、生涯、この病気に悩まされながら死んでゆくという哀れな患者さんも少なくないのです。
 現代医学では、膠原病を自己免疫疾患としてその対策を研究中ですが、いまだ根治療法は開発されておらず、大半は対症療法に終始している現状であります。
 甲田医院では、すでに40年にわたる臨床経験から、慢性関節リウマチの最大原因は宿便の停滞による腸マヒであることを確認できるようになってきました。したがって、この病気を治すためには、何よりもまず宿便を排泄することに主力を注ぐ必要があるのです。
 ところが、現代医学で投与している鎮痛剤は、痛みを抑えることができても、逆に腸の嬬動運動を抑制するという大変な作用もあるのです。このような薬を使っていては、宿便を排泄するどころか、逆に腸マヒを増悪させてしまうことになるのです。したがって、鎮痛剤を使えば使うほど、治り難い身体になってしまいます。このあたりのところは、現代医学のお医者達はもちろん、東洋医学の指導者達も皆目解らないため、慢性関節リウマチを不治の病としてしまうのです。大変残念なことです。
 患者さんにとっては一時的にせよ、つらい痛みを和らげてくれる鎮痛剤が、喉から手が出るほど欲しいのです。連日、地獄の中にいるような痛みと闘っている病人にとっては、もっともなことです。
 しかし、この鎮痛剤の使用をきっぱり断つという決断をされた新井さんは、本当に勇気のある方です。運命は自分を変えるものですが、その道を選ばれたわけです。そして、地獄の中にいるような毎日の激痛に耐えながら、人間的に一回りも二回りも大きくなって成長してこられたではありませんか。病は、自分を導く善知識であるということを、新井さんの闘病生活から本当によく解るのです。
 今後、まだいろいろと困難な壁を乗り越えなければならないでしょうが、新井さんはそれを見事に乗り越え、目標達成の月桂冠を手に入れられるものと信じて疑いません。
 できれば、その貴重なご体験を基に、同病に悩む患者さん達を救う菩薩行をしていただきたいと念願する次第です。

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